紙は白いほどいいのか
パネラー寄本勝美(早稲田大学政治経済学部教授)
辰濃和男(日本エッセイスト・クラブ専務理事)
犬養亜美(エッセイスト)
安間謙臣(東京都清掃局ごみ減量総合対策室長)
村岡兼幸(社団法人日本青年会議所会頭)
半谷栄寿(オフィス町内会事務局代表)

※役職は当時のものを記載

 
いきすぎた純白志向
 
辰濃  私たち日本人が白に対して持つ伝統的な美意識の中には、純白に対する信仰がそれほどあったのかというと、私はかなり否定的です。この機会に、芸術家あるいは書をなさる方などいろいろな方のご意見を聞いてみましたが、むしろ純白に対しては野暮だとする美意識のようなものが日本人の中にはあると思います。白い足袋は見た目には白く見えますが、よく見ると藍がかっています。「藍のぞき」といって、少しのぞかせる程度の淡い藍に染めているのです。これが非常に涼しげで美しいと感じる美意識が、日本人の中にはあります。
 私は白色度、適度な白さというのは今急に始まったことではなく、私たちの心の中にも、そういうものが連綿としてあり、むしろ私たちの本来の美意識に戻ることではないかと、理解しています。
 私たちの身の回りに、白色度80や90、あるいはそれ以上の純白はないのです。60ぐらいのほうが便箋として使っていても心が落ち着くという現実があります。  白色度運動は、真っ白が最高にいいが、それはさておいて、次善の策として適度な白さを選ぼうということではありません。適度な白さこそが日本人の美意識に合うものであって、あまりにも真っ白や純白のものは、むしろ日本人の美意識には合いません。真っ白がすばらしい、真っ白でなければならないといった考え方そのものに、どこか偏見があるのではないでしょうか。いつの間にかそういった習慣が、戦後のある時期から植えつけられたのではないかと思っています。

犬養  日本人は白が好きですが、同時に異常な潔癖症ではないかと思います。非常なきれい好き、形式好きについて少し申し上げたいと思います。
 今日ここに、封筒に入れた資料をいただきました。この封筒はとてもきれいだから、私は次にどこかに郵便を出すときにもう一度使おうと思います。友達なら古い封筒でも差し支えないのですが、仕事関係には新しい封筒でなければ、日本ではとても使えません。
 私は国内旅行をするとき、よく宅配を出します。ホテルや宿屋で、宅配を出したいから箱をくださいと言うと、まっさらな段ボールが出てきます。これを外国で頼むとどうでしょう。ホテルなどは大体裏から空き箱を持ってきて、それに詰めてくれます。私は用途としては、これで十分だと思います。
 日本人は暮らしの中で、潔癖にするあまり、資源のむだづかいをしているのではないでしょうか。身の回りの環境保全に鈍感なのではないかと思えるほどです。小さなことですが、海外から物が送られてくるときに、世界とのずれを大きく感じます。

寄本  紙だけ、なぜこんなに「白さ」が幅をきかせるようになってしまったのでしょうか。白色度80は、コピー用紙の中でたくさん使われている紙の白さです。どうして、白い紙がそうでない紙よりもいいことになってしまったのでしょうか。
 文化より、ある種の商業主義のほうが上回ってしまい、一人一人の個人の選択よりも、つくる側、売る側の論理のようなものが働き過ぎて、それに少し押さえ込まれてしまったようなところがあるのかもしれません。

日本人の見識が問われている

辰濃  これは私の偏見になるかもしれませんが、明治以来の教育では、白を教えなかったのではないでしょうか。教育の場できちんと「白」という色について教えることが、非常に少なかったのではないかと考えます。私は明治の教科書を泥縄式に調べましたが、「白」という字が見あたりません。明治初期の教科書に取り上げられた色の名前を挙げると、赤とか朱、黄、薄緑、紺、ふじ色、灰色、黒とあって、みんな大事な色ですが、「白」がない。白は教えられていない色だったわけです。明治の後期になると、白はないが「胡粉」という色が出てきます。これは日本画に用いる白色の顔料のことですが、それが初めて出てくる。白には、乳白色や、少し青みがかった藍白などたくさんのいい色がありますが、それは教えなかったわけではないでしょうが、少なくとも教科書にはなかったのです。
「生成り色」という色の言い方があります。例えば絹なら生成りの絹の色、芭蕉布なら芭蕉布の生成りの色があります。あれは非常に美しい黄色がかった色ですが、それを大切にしていました。白にはたくさんのいい色があるんだよ、これはこういう表現で使うんだよといったことを、明治以降はきちんと教えていなかったのではないか。それが戦後の高度成長期になって、白は白いほどいい、純白がいいといった変な信仰と結びついてしまったのではないでしょうか。
 
村岡  JC(日本青年会議所)の会議やトラスト制度を勉強しに、たびたびイギリスに行くのですが、イギリスの国の色の基調はグリーンだと聞きました。イギリスの気候風土からいって、山肌を埋めるのは木ではなく、ほとんどが小さい草花だそうです。グリーンで思い出すのが、今年のウィンブルドンのテニスです。試合をするために1年間、コートのグリーンを育てるのだそうです。そしてグリーンで一番映える色は白だといわれます。テレビを見られてご存じかと思いますが、今、テニスのウエアは随分カラフルになってきています。しかし、決勝のユニホームは皆白でした。ヘアバンドまで白です。それは、グリーンに映える色ということで、イギリスの文化の中から出てきた白だと思います。
 たぶん日本のコピー用紙の白には、そういうものはないでしょう。

会場(市民団体) 石けんや洗剤などにも、蛍光増白剤で染めてまで白くするものがあります。大量生産、大量消費の生活の中で、より白いものを効率で売っていく時代がつくってきた一つの考えかと思います。そういうものと、きちんと向き合っていかなければならないと思いました。

会場(製紙メーカー) 白い紙がどんどん普及しています。そういう需要の傾向は間違いなくあります。日本文化の問題ももちろんありますが、やはり情報の質の問題だろうと認識しております。例えばテレビもそうですが、白黒テレビからカラーテレビに変わりました。情報の質自体がカラー情報やビジュアル情報といった形で変わってくるのと共通して、求められる紙質としては、白色度ではやはり白いものが求められるようになってきているのも事実です。
 大部分のコピー用紙メーカーは、白色度70レベルのものはマーケットに出していますから、メーカーサイドからすると、お客様に買っていただければ喜んでつくります。つくる技術はありますし、白色度70ですと新聞の古紙が使えます。

会場(フリージャーナリスト) 確かにそのとおりですが、両面いえると思います。つくる側も売る側も、それを使う側も、「70のほうがいいんだ」と気づいた人から使っていくことが、まず大切ではないでしょうか。やはり、買ってくれればつくる、つくったら買うというのではなく、気がついた人から一歩ずつ変えていくのが大切ではないかと思います。

会場(製紙業界新聞社) 白い紙が売れるのは需要があるからです。例えば欧米社会では、環境に対する市民の厳しい意見があるから、再生紙が浸透するわけです。日本で浸透しないのは、環境問題に対する意識、浸透するだけの条件がまだ整っていないからだと思います。白色度70の運動で本当に意識が高まってくれば、必ず適度な白さの紙の需要は拡大していきます。

安間  白色度70運動は、民間の自主的な活動に私たち行政が呼応し、またそれが市場に広がっていくという展開がすばらしいと感じています。
 東京都は、「再生品利用のためのガイドライン」を全国に先駆けて1996年に策定しました。中でも「古紙配合率70%以上・白色度70%のコピー用紙」は、ガイドラインの最重点品目です。私は、白色度70についての東京都の動きがメーカーやサプライヤーサイドにかなりのインパクトを与えられるのではないかと期待しています。

半谷  アプローチの仕方にはいろいろあると思いますが、オフィス町内会は、総論よりも各論からやろうという立場です。
 環境問題に関しては、今は小学校の低学年から教え始めています。私は1953年生まれですが、恐らく私よりももっと今の子どもたちのほうが教育の中できちんと教わっていると思います。では、ここにお集まりの大多数のいわゆる大人は、環境の意識をどう高めていくのでしょう。もう一度小学校の低学年から始めて、環境の何たるかを教わるのでしょうか。
 我々は環境問題を学ばないで大人になってしまった。何も責任転嫁するわけではないが、私を含め、これまでの経済成長を担ってきた世代は、環境よりも成長を優先してきたことは間違いありません。
 そういう大人の環境問題への意識を高めるために、白色度70の活動は切り口になるのではないでしょうか。総論の環境問題のセミナーに何回出ようとも、私はあまり効果がないのではと思っています。
 その各論の活動を展開するときに、辰濃先生がおっしゃったように、適度な白さに無理やり直すのではなく、そもそも日本人の「本来の文化」に戻るというものの見方を、今日はいただきました。ポリシーを教えていただくと、我々が各論をやっていくときの大きなバックボーンになります。

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